いつでも誰でも読める、ということ

最近、部屋の中身を整理してるわけですが、まぁ、出てくる出てくる、過去の遺産(苦笑。
そんな中、本体がまだ手持ちにあるゲームソフト…SFCとかメガドラとか…は、まぁともかくとして、動かす本体のない、それも5インチのFDメディアなんて、ホント読める状態としても、ゴミにしかならないな、と。
Windows機用の5インチFDD、手持ちにあるにはあるが、最近のマザーには付かないので、PentiumIIIマシンまるごとで凍結してあるんだけど、今でも動くかな?
例えそれらが読め、また動かすマシンがあったとしても、はたして今の自分に動かすことができるの?操作とか起動方法覚えてるの?、って疑問もあるわけで。
ここで、ちょっと思ったのが、電子出版などのデジタルコンテンツの未来が、こんなんじゃ嫌だよなぁ、ということ。つまり後の後の後で、残ったコンテンツだけを手に取ってみても、それを見る手段がなくなってないか、忘れていないか、というお話。まぁ逆にそんだけ先の未来に、どれだけのモノがみかえされるんかいな、って疑問もあるしで、なんともいえない、単なる個人的な感傷っぽい考えとも言えますが。
ただ、紙の本は、よっぽど保存が悪くなきゃ、それこそ押入(湿気などがヒドくない)に普通に入れてあるくらいなら、だいたいそれを手にとってめくるだけで、楽しむことが出来るんですよねぇ…。
でも、そういう面も、デジタルという利点を生かし、絶版がなく、常に入手可能な最新端末で、古今東西のあらゆるコンテンツが楽しめられるようになれば、いらん優越の比較ですけども。逆言えば、そこまでできれば、ホントに紙にこだわる必要もなくなるなぁと。
いつでも誰でも手にとって楽しめる、そういう未来になるといいな。